こわれゆくもの

 冷えた地下倉庫に入ってからも、緒方雅史の汗は止まらなかった。吹き出すというのではなく、Tシャツの下にもう一枚生ぬるい肌着を着ているような感触だ。電力が復帰し、空調が働いている倉庫の中の空気は、鼻や喉の粘膜が収縮するほどに冷たい。金属に触れた指先は痺れるほどだ。しかし、緒方ただ一人が梅雨の真っ直中に放り出されたように不快感に取り囲まれている。
 「こうなるとアレやな、暑いのか寒いのか」
 そこまで呟いて、緒方は愕然と口を噤んだ。
 『暑いのか寒いのかわからない』それは、溶け崩れて死んでいった者達が、死の間際にことごとく口にした言葉だった。
 相方の様子を窺う。紅いメガネはこちらを向いていない。壁面を覆い尽くした銃器を点検するのに執心し、自分の言葉は耳に届いていないようだった。それでも、取り繕わずには居られなかった。
 「…わからん、なんて言うてた連中には悪いけど、冷房も暖房も、有るトコには有るもんやな」
 言いながら、指先が震えた。手をかけたスチールの取っ手が揺れを受けて小さな音を立てた。
 死ぬんか。あいつらと同じように。グチャグチャに溶けて何もかんも一緒くたになった内臓をゲロゲロ吐き戻して、俺も死ぬんか。
 考え始めると、震えは止まることがなかった。指示された仕事は一向に捗らず、紅いメガネの奥をいらだたしげに何度も顰めさせる事になった。

 緒方がそう長くないことは、石野敦士には判っていた。再会したその瞬間から、判っていた。
 生き残った人間が心身に変調を来しているのを、石野はいち早く察していた。そして、瓦礫の中を歩き回り、独自に情報を集めて歩いた。
 ツッコミは強靱な肉体を、ボケは超常的な能力を得ている。少なくとも、一流の(石野自身が一目置いているという意味での)芸人に限って言えば、確実に変異を起こしていた。
 しかし、石野は当初、何の能力も自覚することができなかった。石ころ一つ動かせない。人の心を覗くことも、炎を操ることもできない。
 それなりにボケとしての自信もあった自分が、何故僅かな力も授けられなかったのか。
 それは、死に行く人間に遭って初めて理解できた。“こいつはもう死ぬ”“こいつはまだ保つ”一目で察知することが出来たからだ。これが自分に与えられた能力だとすれば、他の連中のように気合いで人を弾き飛ばしたり空を飛んだり出来ないのも道理だ。

 『看取りの目』と名付けた力で、一番感じ取りたくない相手のそれを知る。皮肉な話だった。緒方と再会した時、涙を抑えることが出来なかったのは喜びのためではなかったのだ。
 しかし、もう冷静さは取り戻している。いくつかに分類した場合、緒方は“最期まで持ちこたえる”タイプに該当した。徐々に身体機能が冒され、最期の時まで意識を保つことが出来る。最も残酷な死に方とも言えるが、石野はそうは思わないことにした。
 少しでも長く相方と一緒に居りたい。
 子供のような我が儘とも言えた。相方に『告知』をしないことに関して悩んだこともあったが、本人が言い出すまで口を閉ざすことにした。恐らく、緒方は自分に心配をかけまいとして隠そうとするだろう。それなら、騙された振りをしていればいい。痛みには適当な理由を付けて薬を渡せば、素直に飲もうとするはずだ。

 倉庫を出ると、警備兵が10名ばかり慌てた様子で駆けつけてきた。
 「気付くの遅いんちゃうか」
 小さく一人ごちながら、いよいよ鍛え上げられた少林寺拳法で撃退していく。小柄な石野がこの世界で生き延び得たのは、偏にこの体術の賜だった。以前の世界では、あらゆる流派の格闘家に馬鹿にされ続けていたもの。その真価は、技術と精神性を骨の髄まで染み込ませた自分という存在が、この新世界で今まさに発揮している。誰にもその威力を疑わせることはない。
 緒方の方へは一人も行かせない。角材で殴りかかられるが腕で受け、そのまま返してやる。護身術であるという基本を踏み外すことなく、相手の行動力を徹底的に奪っていく。
 数分後、倒れ臥し喘いでいる警備員達を残し、石野は飄々と歩み去った。息も乱れていない。緒方が後ろを駆け足で付いて来る。心技体に揺るぎはない。最後の最後まで、緒方を守り抜く。そして、独りになった後も、目指すべきものはある。

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 谷井一郎は振り下ろされる鉄パイプに背を向けて逃げ出した。しかし、真横から何かで腰を打たれて床に倒れた。
 痛みと恐怖でまともな思考など忽ちの内にできなくなった。何かが脛に打ち付けられた。何かが太股の肉をえぐった。何かが肩にめり込んだ。
 ――殺される!
 必死で床を転げ回って攻撃を逃れようとした。それでも暴徒の手は休まることはない。床に倒れ転げ回ることしかできなくなった男は恰好の標的でしかないのだから。谷井は自分が血を吐いていることにも、指が何本か欠損していることにも気付くことが出来ない。ただ凄惨なリンチの嵐の中を、羽をもがれた虫のようにのたうつだけだった。

 弱いな、こいつ。遠くで誰かの声が聞こえた。それはまさしく今自分に金属バットを振り下ろしている男の声なのだが、谷井には遙か遠くから聞こえるラジオの音声のようにしか聞こえなかった。
 他の奴らと違って、何もできないんだな。これじゃ倒しても、役に立たないかもな。相方の方がまだ手応えあったよな。見ろよこの顔、元々ブサイクだけど、すげーな。人間じゃないみてーだ。
 薄れかけた意識の中に、そのやり取りのどこかが小さな傷を付けた。画鋲を拾おうとした時のような小さな傷、血を出すには至らないが、その分悔しいあの傷のように。

 肉体の痛みは認識できる範囲を超えていた。足は腫れ、折れ曲がり、原形をとどめていない。腕も同じだった。指先は執拗に踏みつけられ、ほとんどの指が皮で繋がっているような有様だった。左手でまともに残っているのは親指だけだ。鼻も口も、既に人間のそれではない。それら全てが激烈な痛みを脳に伝えてきていたのが随分と昔のことのように思えた。もう谷井の意識は谷井の肉体を放棄してしまっていた。
 しかし、恐怖だけに満たされた意識の外側に小さく刻まれた傷が、全てを再び結びつけた。今すぐ死んだ方がマシだと思えるような痛みと共に、思考が甦って来た。

 相方…?

 今立を殺したのもこいつらなのだろうか。今立もこうして殴り殺されたのだろうか。力を得るためだけに殺されたのだろうか。パンを万引きして食べるような気軽さで、こうやってなぶり殺しにされたのだろうか。痛みと恐怖の中で死んだのだろうか。今立は許しを請うただろうか。それとも助けを呼んだだろうか。だから喉を切られたのだろうか?明日はお前の相方も殺すと言われたりしたのだろうか?今俺を殴っている道具の中に、今立の血が付いたままのものがあるのだろうか?

 腫れ上がった瞼の奥が、微かな光を放った。
 それはまごう事なき涙だったが、力を秘めた涙だった。今は無力でも、後に何かを成す力を秘めた涙だった。今は無力でも、後に世界を大きく変えていく為に必要な何かを成す力を秘めた涙だった。
 谷井は叫んだ。腹も喉も傷つけられ、既に声と呼べるものではなかった。それでも、谷井は叫んだ。命の限り叫び続けるつもりだった。周囲で何が起こっているか谷井にはわからなかった。過去も未来も、今も、何一つどうでもよかった。ただひたすら、谷井は叫んだ。


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