ケルベロス |
「薬」 井上は藤森の後頭部に単語を投げ落とした。 「あるやろ。くれ」 藤森は震えながら井上を見上げた。そして、中田と井上に視線を走らせながら、唇を奮わせた。 「中田は置いとくから。薬。早く」 藤森は壁に縋り付くようにして立ち上がり、屋内へ駆けていった。 植松は井上の横顔を観察していた。先程の才気走った面差しではなかった。虚脱、或いは虚無。常日頃の、何を考えているのかまるで読めない、ただ美しいだけの顔。 もしも井上が計算ずくで今の行動に出たのだとすれば、天然だの最低のIQだのとは言っていられない洞察力を有していたとしか言えまい。藤森には何もできない。白状してしまっていた。到底芝居とも思えなかった。その藤森が、なんでもするから助けてあげてくれと(「助けてやってくれ」ではないのだ)言った相方、中田はこちらの手の内にある。中田を救うためには指示通りに動くしかないわけだ。 屋内から銃を構えて戻ってくる可能性も無いことはなかったが、中田を盾にして時間を稼ぐだけの話だ。他の事態は?この病棟全体を爆破して、相方もろとも… 「あいつは何もしないでしょ」 井上が呟いた。じっと足下を見据えている。しかし、見ているものはもっと遠く、大きなものだ。植松にはそう思えた。 「さっきの、何?」 好奇心から訪ねた。井上の異能、あの『博打』の才覚は、いつから隠していたのか。 「さあ」ぼんやりとした声だった「ただ、その、あのままやったら、河本あぶないんちゃうかなと思ってたら、何や急に」 これだ、この空気だ。何度会話しても相容れることがなかった空気。井上は常に自分の世界だけに生きており、他者をその世界へ入れることがない。だがそれは決して排他的な雰囲気ではなく、例えるなら水の中を歩く時のままならなさのようなものだ。実際、植松は井上のこの空気に呑まれるのが嫌いではなかった。そして何より、今はとてつもない光明を見た気がし、思わず笑みを浮かべた。 井上は『日常』の中に生きている。 大破壊後の世界に呑まれていない証だと植松は思った。芸人同士の会話、楽屋の与太話、井上はまだあの中に居る。そして、それを認識できる俺も。 肝心な時に不甲斐なく思われていることは別として、植松は今の短いやり取りに確実に希望を見出していた。 藤森が段ボールを抱えて戻ってきた。 「とととりあえず、今出てたぶんだけです」 「ありがとうな」 井上は早口で礼を告げると、河本の手当に取りかかった。 直視が憚られるような状態ではあったが、植松はやはり観察せずにはいられなかった。頬骨の解放骨折だろうか。口の中まで傷が達しているように見える。どう手当をしたものか見当が付かない。 それでも井上は、手を休めることはなかった。使えそうな物はごく簡単な消毒液と抗菌剤、そしてガーゼと包帯くらいのものだったが、予め段取りを付けていたように手際よく作業を進めた。 「それに関しては聞いてええの」 植松は最大限に気を使った訪ね方をした。誰に、何を、どのようにされたか。植松の周辺でも説明をするのが困難な事態ばかりだったからだ。 「あの、なんです」井上は手を動かしたまま、微かに険しい表情になった「じょうもんどきみたいな、あの、しょうにゅうせきみたいな」 植松の思考はここに来て遂に一旦停止した。それでも必死に再起動させ、その呪文を判じようとした。 「あるでしょう。黒い、割って尖らす言う」 「あの、それって、もしかして」藤森が遠くから声を掛けた「黒曜石の、石器のことすか」 「そう、それそれ」井上はまるで動じていないようだった「投げて来よったんです」 植松は既に、相手のことや傷のことを考えていなかった。尖った石を投げ付けてくる誰かが居ることも気にはならなかった。ただ「縄文土器の鍾乳石」という表現をしながら河本を護り抜き、そしてこの自分の命をも救ってくれた井上聡という男への感嘆だけが胸を満たしていた。 本来ならば、早々に大熊を――堀内を追いたかった。しかし、互いに異能を持ち、一旦交戦状態に陥った次長課長とオリエンタルラジオを置いてこの場を去ることはできない。植松の中には常に、表現しがたい使命感のようなものがあった。 寝台に寝かされた河本を見ながら、植松は中田の処遇を考えていた。異能を取り去ることが出来ない限り、中田が危険な存在であることは間違いない。何よりもあの敵意だ。自分を『王様』と呼ばせ、立ち入る者を片端から死者の餌食にしていたという無差別の敵意。 話し合いで解決できる相手とも思えない。それは井上も同意見であり、とりあえず拘束することにした。とりあえずと言うには手荒なやり方にはなったが、散乱していた針金で柱に後ろ手にくくりつけた。 「あああんまり、いたくしないであげてください」 藤森の哀願に、植松も井上も応えなかった。死人にまとわりつかれた嫌悪と恐怖は未だぬぐい去ることは出来ていない。そして臭気も。死体の腹を拳で突き破ったことを思えば、針金で縛られる方がどれだけマシだろうか。 井上は膝を押さえながらゆっくりと立ち上がり、中田を見下ろしたまま問いかけた「その傷はどうしたん」 植松はその時初めて、藤森の首に絆創膏が何枚も貼られていることに気付いた。確か、目立つほくろのあった位置だ。 「あ、あっちゃんに」藤森はそれを隠すように俯き、しばし言い淀んでからようやく口を開いた「噛みつかれて、食いちぎられて」 「食われそうになった?」井上は視線を動かさないまま言葉を重ねた。 「あ、ちが、あっちゃん、最初、おかしくなって、いや、何か、すごい暴れてて、そんで俺、必死で押さえ付けたんですけど、そん時に」 「他に見えるトコに傷がないのは油断さすための作戦?」 井上の問いに藤森は虚を突かれたように押し黙った。植松はその意味するところが判らず、井上を振り返った。 「さっきうずくまった時、背中がちょっと見えて」井上は初めて藤森に鋭い目を向けた。しかし、藤森がすぐに視線を逸らし、井上はまた泳いだような目つきに戻った。 藤森がしゃくり上げ始めた。嗚咽を堪えている。長い間があり、藤森は蚊の鳴くような声で「ちがいます」と呟いた。 Tシャツをまくり上げた藤森の体を見、植松は思わず短く声を上げた。胸、腹、背、至る所に痣があった。真新しい物もある。むしろ普通の肌色をした部分の方が少ないように見えた。 「あっちゃん、力を抑えきれなくなると」傷を覆ったTシャツの薄い布地を握って、藤森は呻いた「なんかにぶつけないと、どうにかして力、使っちゃわないと、あっちゃんダメになっちゃうと思って、だから俺」柱に巻かれた鎖に3人の視線が集まった「俺あっちゃんにぶたれるのは平気だから、あっちゃんがダメになっちゃうより、俺一人になっちゃうより、殴られる方が平気だから」藤森はしゃがみ込み、なおも続けた「あっちゃん俺の顔すごい大事にしてくれてて、俺のこと美少年だって言ってくれてて、だから顔はぶたなかったんです多分、あとメガネのことも多分、わかんないけど俺あっちゃん絶対俺のこと護ろうとしてくれてて、だから俺殴られても」 これを献身と呼ぶのだろうか?植松の語彙には、中田と藤森の関係を適切に表現する言葉がなかった。そもそも、この概念そのものを植松は持っていなかった。死体を操る男。暴走する力を、肉体を犠牲に受けとめる男。生き延びるためとは言え、何故そこまでするのか、そこまでできるのか。 音に不意を打たれ、3人の体が一様に震えた。井上はいち早く駆け出したが、既に音の主は戸口まで這い出て来ていた。 「お前や」 河本は井上の手を振り払って上体を起こした。 「お前がそいつをそうした」 血塗れの手で中田を指した。脈動と共に大きく震えていたが、指先は中田を真っ直ぐに捉えていた。 「ちがう…」 「お前が」河本は、包帯の隙間から僅かに覗く片目で藤森を睨み据え、喝した「お前が先に殺したからや」 「違います!ちがいます!!」 寝台から落ちた際に傷が広がっていた。包帯に真新しい血が滲み出している。 「お前もひとごろしや」 「ちがう、俺は、俺、あっちゃんを」 「おまえが」 河本はそこで床に突っ伏した。気を失っていた。井上が抱え起こした背後で、藤森が絶叫した。 「だってあっちゃんが!あっちゃん首切られて!俺がやらなきゃあっちゃん殺されちゃうと思ったから!俺だっておれだっておれだって殺したくなんかなかった!けどそいつがあっちゃんを、あっちゃんを」 植松は曖昧な記憶の中から浮かび上がってきた魔物の姿を、藤森の華奢な背中に重ねていた。 地獄の番犬、ケルベロス。冥府の神に飼われている。逃げ出そうとする死者を捕らえ、喰い殺す。 それはあまりに惨い務めではないのか。どれほど辛くとも、きっと忠犬に逆らう術はなかったのだ。 3つの首を持ち、毒を吐くという魔物が、項垂れているのが見えた気がした。犬特有の上目遣いで、その運命に身を委ねている。 植松は壁に寄り掛かった。眩暈がしていた。無意識のうちに目を閉じていた。 既に視界から得る新たな情報は何もない。見えないものについて考えなければならなかった。考えたくなくとも、考えてしまっていた。 |