コランダム 

 獲物を見失った品川は、息を弾ませたままその場を徘徊していた。腹が減って仕方がなかった。何でも良いから口にしたい。できれば肉を。できれば人を。
 自分より弱い者を襲い、その肉を喰らう事は、悦楽と言っても良かった。怯えた顔、泣き叫ぶ声が、そのまま旨味として口の中に広がる気がした。腹に収まった血肉はそのまま自分の力になる。その力を用いて、また新たな獲物を探す。全ての弱者は自分に狩られる運命にある。ここはそういう世界だ。
 
 西野を獲り逃がしたのが悔しくてならなかった。
 あれだけの男前なら、きっと美味い筈だと品川は考えていた。美しい者は弱い。そして、弱い者は美味いのだ。
 
 最早、辺りから西野の臭いを捉えることは出来なかった。走り回って疲れた所為もあり、飢餓感はいよいよ募った。砕けたアスファルトを、おぼつかぬ足取りで引き返しながら、品川はある一つの思いに執着するようになっていた。

 庄司が喰いたい。

 あれだけの男前で、あれだけ弱いなら、きっと美味い。鍛えられた肉体も喰い出がありそうだ。
 不意に品川は、その確信が別の何らかの感情に起因しているように思った。何か大きな、大切な事柄がこう思わせている。
 しかし、品川にはそれが何なのか判らなかった。以前は判っていたのかも知れない。ただ、今は考えても思い至らない。考えること自体、ひどく面倒だ。

 ただ一心に庄司の肉を求めた。襲いかかれば、きっといつものように必死に抵抗するだろう。泣き出すのを堪えた顔。殴り掛かっても殴り返してこようとはしない。その怯え。囓り付き、尊厳ごと食いちぎる。それを堪能しながら咀嚼することを夢想し、涎をこぼしながら品川は歩いた。
 “いつものように”という考えも、歩みを進める毎に薄れていった。
 そして品川は、思考そのものを失っていった。
 
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 日没までに今夜の食料を集めてしまわなければならない。空腹は肉体よりも精神を萎えさせる。ゴンは夕陽の明るさを頼りに食料を探していた。

 「ア」チロの甲高い声が頭上から聞こえた「マタ見ツケタ!」
 横目で見上げると黒いおかっぱが興奮した様子で揺れていた。監視員の椅子の上でしきりに跳ねている為、プールサイドのタイルにはヒビが増え続ける。ゴンは片手で支柱の一本を握り、揺れを抑えた。

 「今度モ僕ノ方ガ見ツケタノ早カッタ!」
 賞賛を強要する視線を感じたが、適当な相づちをうったなりでゴンは作業を続けた。大破壊の後に突然変異を起こした野草の中には、極めて毒性の高い物がある。どれだけ体力に自信があっても、慎重に成らざるを得ない。丹念に分別していく。

 「来ルヨ!」
 小さな相方は不満げに再び椅子を揺らした。
 仕方なくゴンは立ち上がり、腰を伸ばした。
 「さっきのと、同じかいね。としたら楽っちゃろうけどね」
 ゴンは楊枝代わりに銜えていた草の茎を吐き出した。丁度目の高さにあるチロの膝に、野草を分けた袋を置く。

 背を丸めて歩く姿は、人と言うよりも大型の猿のようだ。名のある芸人だったその獣を一瞥し、ゴンは寂寥感を振り切るように高く口笛を吹いた。
 品川祐という名前だった獣は、すぐに気付き顔を上げた。そして、最早人のそれではない速さと足取りで突進してきた。

 ともすれば視界も覚束無いのかも知れない。ゴンが避けるまでもなく品川は監視台に頭から激突した。
 チロは衝撃を上手に活かして空中で躰を伸ばし、一回転半して飛び込み台の上に両足で着地した。
 ゴンは対岸で笑顔を見せているチロ自身よりも、その手の中の夕食が心配だったが、とりあえず品川の後頭部に軽く蹴りを入れた。
 獣の咆吼で品川は苦悶した。伸びた牙と爪と、むき出しの憎悪。圧倒的な弱者にはそれだけで脅威だろうが、あまりにも隙だらけだ。
 顎の関節が外れんばかりの大口を開け、15センチも下から大胆にも顔面に食らいつきに来たところを、フルスイングの張り手で横なぎにした。

 品川の躰は10メートル近く飛んでいき、轟音と共にプールの底に叩きつけられた。元から入っていた亀裂が枝分かれし、品川を囲んでいた。
 チロの笑い声が辺りに響き渡った。
 ゴンは叩きつけた平手を大げさに振るって見せ、チロに笑い返した。
 「今度モ飛ンダネ!スッゴイ飛ンダネ!」
 「軽か。ふらふらやけん。やっぱ、喰わな」ゴンはチロの手元に目をやった「落とさんやったね?」
 「ダイジョブ」チロは袋を耳の高さで振って見せた。
 
 品川の背を一瞥し、ゴンはチロを促した。
 「隠れて飯の食わな」
 「ソウダネ」
 大小の二人は並んで歩き出した。
 水色とオレンジの縞が、夕陽を受けて一層鮮やかさを増した。
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 遠藤を殴り倒した後、庄司は肉体の滾りをそのままに街を彷徨い歩いた。襲いかかってくる者があれば力の限り殴りつけた。相手の生死にはもう興味がなかった。
 ただ、戦士である自分のどこかに、未だ芸人としての魂が残っているのが苛立たしかった。後輩としての、追従するものとしての意識。常に媚びへつらう意識だ。或いは、若手の急襲に怯える意識だ。
 その苛立ちを相手に叩きつけた。しかし、どれだけ拳を振るっても、それは消えることがなかった。むしろ次第に増してくるようにさえ思えた。

 これを払拭しなければ、強くなれない。自分はもっと強くならなければならない。
 強迫的な使命感に背を押され庄司は歩いた。自分以上の芸人を探し出し、倒さなければならない。こうしている今も、手柄は他の誰かに奪われているかも知れないのだ。

 それでも庄司の目はうつろで、歩みも蹌踉としたものだった。遠藤との戦闘で高ぶった心身が冷め始めていた。
 つぶれた地下道の階段の踊り場へ倒れ込むように蹲った。人間が一日に動き得る限界をとっくに超えていた。眠りか失神か、どちらともつかない休息へ庄司は身を委ねようとした。

 そこへ忍び寄る影があった。黒づくめの男だった。全身、ただ一箇所を除いて黒い布で覆い尽くしていた。
 ポケットから引き抜かれた右の掌が、闇の中で白く浮かび上がった。
 真正面に立っても、庄司は目を閉じたまま動かない。笑みを浮かべたのか、男の口元を覆った布が微かに動いた。
 男は、破れかけたタンクトップから露わになった庄司の胸板にゆっくりと掌を近づけ、そして押し当てた。
 その瞬間、庄司が目を見開いて拳を放った。不完全な体勢から繰り出されたそれは男を掠めただけだったが、刺客は慌てた様子で後方へ跳び退いた。
 庄司は跳ねるように立ち上がり、臨戦態勢を取った。しかし、胸を抑え、小さく呻いた。そのまま庄司は膝から崩れた。
 「どれだけ体を鍛えていても、細胞レベルでは同じなんだ。気を付けろ」
 男の声は笑っていた。
 「お前はそこで、一時間以内に死ぬ。間違いない」
 そう言い残すと、男は階段を駆け上がって消えた。

 庄司は這い蹲ってもなお、男の背に手を伸ばした。
 「待って下さい」叫ぼうとすると、喉の奥から血が激しく吹き上がった。それでも庄司は立ち上がろうとしていた「俺と――」
 ――俺と闘って下さい!
 そこで庄司の意識は途切れた。血だまりに頬を埋めてなお、庄司は拳を握っていた。胸には掌の形に青黒く痣が浮かび上がっていた。



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